記憶のタイムカプセル

20年後の自分が今の自分が考えていたことを思い出せるように書き記す

宇宙に橋をかけた男〜コンスタンチン・ツィオルコフスキー〜

みなさんも一度は空を見上げながら、宇宙に行ってみたいと思ったことがあるのではないだろうか?

 

まずはこの動画を見てもらいたい。

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スペースX社のCEOを務めるイーロン・マスク氏は、現在、惑星間飛行を行うためのロケット開発を行なっている。

 

ロケットは、一旦打ち上げると機体がゴミとなってしまうものだと思われてきた。

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しかしながらでっかいゴミだ。

 

しかしながら、イーロン・マスク氏が開発しているロケットは、なんと、地球に帰還し、着陸する。

 

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この技術が確立されると、今より格段に宇宙へ行くコストが小さくなる。

少し先の未来には、私たちが当然のように宇宙に行く時代がやってくる。

 

 

今回紹介するのは、そんな人類の宇宙への道を開いた科学者。

その名も、コンスタンチン・ツィオルコフスキー。(1857年〜1935年)

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(5回早口で言えたら100円ゲット!っていいたくなる名前、もちろんロシア人。)

 

彼の通り名は、「宇宙に橋をかけた男」。

うーん…かっこいい。

 

 

一体彼は何者なのか。何をなしたのか。

そもそも聞いたことがある人がどれだけいるのだろうか。 

 

 

 

彼は、1857年9月17日、モスクワ近郊のイジェーフスコィエ村に生を受けた。

 

林務官を務める父と、読書好きの母の間に生まれた四人兄弟の末っ子のツィオルコフスキーは、家族にかわいがられながら、すくすくと成長した。

 

しかし、人類の宇宙への道を切り開く彼は、やはり、非凡な才能の片鱗を見せ始める。

 

7歳の時だった。

https://prismkites.com/wp-content/uploads/2016/03/prism-kites-pica-p1-flying-sky-mojito.jpg

 

いつものように、凧揚げをして遊んでいたツィオルコフスキーはふと思った。

 

「この凧に動物を乗せて、高いところにあげると、一体動物はどうなるのだろうか?」

 

そして、ある動物を選んで、凧に設置した小箱に入れて空に放ったのだった。

 

その生き物がこいつ。

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ゴキブリだ。

 

ゴキブリの乗った凧を上空に揚げ、そして、凧を降ろして、熱心にゴキブリの様子を観察していた。彼の空への飽くなき探究心は、7歳にして開花していたのだ!

 

さすがだ、ツィオルコフスキー

 

そして、彼は順調に成長していき、優秀な成績でモスクワ大学に入学し、その当時、ロシアの科学界で名を馳せていた、メンデレーエフと親交を深め、偉大な発見を…

 

 

 

するのではない !

 

 

 

ここが、ツィオルコフスキーが人を惹きつけて止まない理由である。

 

彼は9歳の時に、当時は危険な病気だった猩紅熱にかかったのだった。

一命はとりとめたものの、聴力を失った。

 

活発な少年だったツィオルコフスキーはその後、家に閉じ篭るようになる。

 

唯一の友達は、父親の本。林務官を務める父の本棚には、様々な自然に関する本があった。

 

ツィオルコフスキーは、それらの本を片っ端から読破して行った。

そして、その過程で、本に記載してあることを次々と実生活に応用していった。

 

絹の袋にゼラチンを塗り水素ガスを詰めて空中に浮かべた風船

風の力で風車を回しその動力で車を回転させて動く風力車

・・・

 

彼が作る精巧な模型や機械は、周りの人々を驚かせた。

孤独を埋めるための治療薬だった独学が、ついには生きていく支えになったのだった。

 

(もうこの時点で泣きそう。)

 

そして彼は、大学に進学…

 

 

 

するのではない。

 

 

 

16歳になった時のことだった。

学校に通っていなかったツィオルコフスキーは、進学することが難しかった。

 

しかしながら、学問をこよなく愛する息子にどうしても学ぶことを続け欲しかった父は、大きな決断をする。

 

彼を1人でモスクワに送る決心をしたのだった。

 

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(19世紀のモスクワ)

 

モスクワに一人。あてもない。お金もない。

 

そんなツィオルコフスキーは、また孤独に学び続ける。

黒パンを食べ、水を飲み、本を1冊ずつ丹念に読み込んでいく。

 

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ひもじかったに違いないが、それでも彼は大好きな学問ができることに無常の幸せを感じていたという。

 

そうして、モスクワの図書館にある高等数学、物理学、化学、天文学、気象学…といった様々な学術書を次々と読破していった。これらの本が彼の今後の破格の想像力を養ったのは、いうまでもない。

 

そうして、彼は、ついに論文を執筆して、学会に認められる

 

 

 

のではない。(もう、どこまでも認められず、不遇の人なんです…)

 

 

 

3年間、孤独に学び続けたツィオルコフスキーは、地元イジェーフスコィエ村に帰っってくる。

 

近所の子どもたちの家庭教師を始めると、大変な評判を受けるようになった。

それもそのはずだ。彼の知識は、とてつもなく膨大になっており、時代の先端をいく科学者たちと遜色ないものであった。

 

その後、中学の教員の試験を21歳の時にパスして、近隣のボロフスクという町で数学を教え始めた。

 

この頃、新たな実験を行なった。

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何かお分かりだろうか?

 

実は、この実験、ひよこを回転台に乗せて、一体どれだけの重力に耐えられるかを実験するものだった。

結果としては、5Gまでなら大丈夫との推定をえている。

 

このように、教師をするかたわら、彼は論文を書いた。それが次の論文。

 

「気体の運動学理論の原理」

 

ツィオルコフスキーは、この論文をペテルブルクのロシア物理化学協会に送った。

正式に、大学で学んでいない彼の論文は、論文としては体裁が整っていなかった。

 

しかしながら、それをみたある一人の科学者は、驚嘆した。

 

それが、周期表の発明者として有名なこの人。

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ダンブルドア…ではなく。

 

ドミトリー・メンデレーエフ、その人であった。

 

メンデレーエフは、その後も、ツィオルコフスキーのサポートに奔走してくれた。

 

 

…という説と、あまりの出来栄えに嫉妬して、隠蔽したという説がある。

 

どうか、サポートしてもらえていましたように…

 

その後も、ツィオルコフスキーは次々と論文を発表していく。

 

どれも、論理に裏打ちされ素晴らしい内容であった。

 

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上図は、1903年に彼が作図したロケットの設計図である。動力源は液体燃料であり、水素と酸素を混ぜて推進力を生み出し、その反動で前に進む仕組みとなっていた。

 

彼は、この仕組みのロケットを初めて作り上げ、晴れて、宇宙に橋をかけた男と呼ばれることに、

 

 

 

…やはり、ならないのである。

 

 

 

液体燃料のロケットの打ち上げに世界で初めて成功したのは、アメリカ人のロバート・ゴダードであった。1926年のことであった。

 

一体なぜ、ツィオルコフスキーはロケットを飛ばすことができなかったのか。

 

大学を出ていない彼の論文は、学会でも政党に評価されず、研究費をほとんどつけてもらえなかったのである。

 

現在、ロケットの開発にかかる費用は、1機あたり470億円。(※アメリカ空軍)

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一方で、ツィオルコフスキーが当時、学会からもらえた研究費は、なんと。

 

約100万円。

 

…エンジンすら作ることができなかった。
(※貨幣価値に関しては諸説あります。)

 

しかしながら、彼はこのロケットの構想の中で、彼の名を不朽のものにすることになる。

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ツィオルコフスキーの公式である。

(ΔV=ロケットの最終速度、Ve=ガスの噴射速度、Mf=燃焼後の質量、Mi=点火時の全質量)

 

この定式では、ガスの噴射速度と燃料満タンの時の質量と空っぽの時の質量から、ロケットの最終速度を求めている。

 

当時は着目されなかったが、この定式は現在もなお活用され続けている。

 

 

彼の不遇はまだまだ続く。

1981年、彼は飛行機の仕組みについても論文を書いている。

 

世界最初の飛行に成功したのは、もちろん彼ら。

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そう。ライト兄弟である。

 

彼らが初めてフライトを行ったのは、1903年

 

そう。彼らよりも12年も早く、飛行機の仕組みについて、論文を発表していたのである。

 

しかも、彼の凄さはこれに止まらない。

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当時の飛行機の常識は、羽が2枚、3枚と繋がったものだった。

 

羽の枚数が多いほど、浮力が大きくなるため、このような形状が適していると考えられていた。

 

しかしながら、彼のスケッチは以下のものだった。

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なんと、現在のものにかなり近しい、全体が流線型となり、抵抗を排除するデザインになっていたのだ。

 

しかも、木製ではなく、金属で機体を作ることを推奨していた。

エンジンの力強さに、機体が負けないことを配慮してのことだった。

 

今の飛行機がどのような形をしているかを考えると、ツィオルコフスキーの先見性には驚かされる。

 

 

そして、彼は、ついに、やっと、なんと、

 

 

アカデミーの会員に認められる

 

 

 

のである!

 

 

 

1917年のロシア革命の後のことだった。

 

彼は61歳になっていた。

 

 

それから、ツィオルコフスキーの生活は一変した。

 

ロシア中から若い科学者が教えを受けたいと集うようになった。

 

それまでせき止められていたものが吹き出すように、1925年から1935年の間には、60編にも及ぶ論文が発表された。

 

1926年に出された論文では、原子力エンジンを使ったロケットの構想が示され、1929年の論文では、多段式ロケットの構想が示された。

 

どれも、現在の研究で取り扱われているトピックである。

 

いやはや、恐ろしいまでの想像力である。

 

 

そうして、溢れるような無数の着想を世界に残し、彼は誕生日の2日後に息を引き取った。78歳であった。

 

彼が晩年を過ごしたカルーガ市の石碑にはこう記されている。

 

http://racco.mikeneko.jp/Photos/200908/museum02.jpg

 

-人類はいつまでも地球にへばりついてはいない。光と空間を求めて、人類はまず大気圏外におずおずと顔を出すだろう。そしてやがては太陽の周りの全ての宇宙空間をわがものとするであろう。- 

 

予言通り、彼の死の26年後に、同じロシア人のユーリ・ガガーリンが宇宙に飛び出した。人類や大気圏外におずおずと顔を出したのである。

 

そして今、世界の最先端では惑星間飛行を模索し、火星にまで私たちの手を届かせようとしている。

 

最後に、ツィオルコフスキーが残した言葉を噛み締めて終わりたい。

 

-地球は人類の揺り籠である。しかし人類はいつまでもこの揺り籠にとどまっていないだろう。-